フィンランドMBA;スルーカって?

なんかネットで”スルー力”ていう

言葉がいろいろでていたので、しらべてみた。


スルーカって”スルーする力(ちから)”ってこと。

最初はカタカナで”スルーカ”って

かいてあるかとおもった(笑)

スルー力(ちから):
物事をスルーする能力の事であり、
高林哲氏により提唱された概念である。

この概念におけるスルーの定義は、
ものごとをやり過ごしたり見て見なかったことに
したりすることを指す。

by はてな


この言葉をみたとき、

おもいだしたのは、柴田元幸著「翻訳教室」で

かかれていた村上春樹とのやり取り模様;

村上春樹は、真偽のほどはともかく、

自作へのプロ(批評家・文芸評論家など)による評価・評論は

いっさい読まないと公言している。


それで柴田氏が、じゃあ「読者の声は聞かれますか?」と

村上春樹に問うた。以下がそれへの村上の回答と

さらに続く問答である。


村上 インターネットでウェブサイトを

やっていたときは全部読みました。


僕がそのとき思ったのは、一つひとつの意見は、

あるいはまちがっているかもしれないし、

偏見に満ちているかもしれないけど、全部まとまると

正しいんだなと。僕が批評家の批評を読まないのはそのせいだと思う。


というのは、一人ひとりの読者の意見を

千も二千も読んでいるとだいたいわかるんですよね。


こういう空気があって、その空気が僕のものを

読んでくれているんだというのが。悪いものであり

いいものであったとしても。


で、一つひとつの意見がもし見当違いなもので、

僕が反論したくなるようなものだったとしても、それはしょうがないんですよね。

僕は正しい理解というのは誤解の総体だと思っています。誤解がたくさん集まれば、

本当に正しい理解がそこに立ち上がるんですよ。だから、

正しい理解ばっかりだったとしたら、本当に正しい理解って立ち上がらない。


誤解によって立ち上がるんだと、僕は思う。



柴田 
そうすると、その批評家一人の声は読者一人の声と同じものだということですか?

それともまた別のものですか?


村上 
たとえばウェブサイトに批評家がメールを送ってきたとしますよね。

そうするとそこにメールが2000あったら2000分の1ですよね。

よく書けている評論かもしれないけれど2000分の1。

僕がとらえるのもそういうことです。


柴田 

たとえばそれが、新聞の書評なんかだと、

あたかも一分の一のようにふるまってしまう。そういうことですね。


村上 

そういうことです。だから僕がいつも思うのは、インターネットっていうのは本当に直接民主主義なんです。

だからその分危険性はあるけれど、僕らにとってはものすごくありがたい。

直接民主主義の中で作品を渡して、それが返ってくる。すごくうれしいです。

だからインターネットっていうのは僕向けのものなんですよね。


参照;[コラム] 総表現社会村上春樹の言葉
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/searchdiary?word=%bc%c6%c5%c4%b8%b5%b9%ac


まあ、ひとによりけりだとおもうけど、

僕的には、いろいろな人から様々な意見をきいて

それを自分なりにまとめていくことが大事なんじゃないかな。


でも、この方法って経験や個人的な心情によって

サクサクかわってくるものだから、別に固定したやりかたに

固執する必要なないのかなーっておもう今日この頃。